2023年に行われた東山敬之、井ノ原快彦によるジャニーズ事務所の会見で代読されたジュリー藤島氏のメッセージでは、母親であるメリー喜多川の強権的な支配や、それによりジュリー氏がパニック障害に陥ってしまったことも公表され衝撃を呼びました。ジャニーズの副社長として長年君臨し、事務所内や芸能界、日本のメディアや企業にまで大きな影響を及ぼしたメリー喜多川の生い立ちについて調べてみました。
メリー喜多川の出身地、本名、生年月日
本名:藤島メリー泰子(ふじしま メリー やすこ)
生年月日:1927年(昭和2年)12月26日
没年月日:2021年(令和3年)8月14日(93歳没)
本名の姓は喜多川ではなく藤島なんですね。しかもメリーという欧米人のような名前、気になります。昭和2年といったら戦前。どのような半生だったのか調べていきます。
メリー喜多川はハーフ?日本人?家系図、家族構成
ジャニー喜多川同様、メリー喜多川も外国人のような名前から「ハーフなのでは?」と考える人も多いと思いますが、れっきとした日本人です。
メリー喜多川の父母は?
父親は喜多川諦道(きたがわたいどう)さんという高野山真言宗の僧侶。母親も喜多川栄子さんという日本人です。
喜多川諦道さんは1989年(明治31年)大分県出身。8歳で出家し、13歳で高野山の普賢院に弟子入りして修行を始めます。その後1924年にアメリカに渡り、ロサンゼルスの大師教会(現、高野山米国別院)で主監に就きます。
その後10年間アメリカに滞在し、任を果たすことになりますが、この間に日本から妻を呼び寄せ、メリー喜多川、メリー喜多川の弟である長男、末っ子のジャニー喜多川の3人の子どもが生まれました。
喜多川諦道さんはロサンゼルス時代には、ボーイスカウトの隊を結成したり、衰退していた婦人会で一流料理人を招いた料理教室を開いて盛り上げたり、婦人会に社会貢献活動をさせたり、日本人社会のキーマンであり、人を楽しませるエンターテインメントの才能もあったようです。
また日本に帰国後はプロ野球球団のマネージャーを務めたり、大阪の繁華街でぜんざいを出す店を営んだりしていたそう。マネジメントの才能や商才はこの父親から受けついだものなのかもしれません。
メリー喜多川の兄弟は?
メリー喜多川にはジャニー喜多川の他にもう1人の弟がいます。
喜多川諦道さんの長男で、メリー喜多川にとっては、すぐ下の弟にあたる喜多川真一さんです。
アメリカで、宇宙航空開発製造のノースアメリカン・ロックウエルという会社でエンジニアの職に就いていたそうですが、1980年代に50代半ばで亡くなっています。
メリー喜多川の夫は?
夫は元新聞記者で小説家、評論家の藤島泰輔(ふじしまたいすけ)氏。藤島氏とはバーを開店していた際のお客として知り合い恋仲になったようです。夫の藤島泰輔氏はメリー喜多川のバー時代のお客で、出会った当時は高浜虚子の孫娘と結婚していたそうです。ですが離婚前に、娘ジュリー氏が誕生し、その後、藤島氏と前妻の離婚が成立してから正式に入籍しました。
藤島氏は1997年に64歳で亡くなっています。本名の藤島はこの夫の姓ということになりますね。
メリー喜多川の娘や孫は?
そしてこの夫との間に生まれたのが一人娘で、メリー喜多川の死後はジャニーズ事務所の社長もつとめた藤島ジュリー景子氏になります。
孫は藤島ジュリー景子氏とその元夫である高橋拓也さんとの間に生まれた一人娘で、現在19歳です。
藤島ジュリー氏は1回目の記者会見で、晩年のメリー喜多川との接触はこちらの孫娘を通しての交流のみであったと語っていました。
回りから恐れられた存在でしたが、世の中のおばあちゃんと変わらず、孫のことはきっとかわいかったのでしょうね。
メリー喜多川の経歴
メリー喜多川の経歴をまとめてみます。
- 1927年アメリカロサンゼルス生まれ
- 1933年(当時5歳?)家族で日本に帰国し大阪市で生活。帰国後まもなく母親が死去
- 第二次世界大戦中、戦争が激化すると2人の兄弟とともに和歌山県の那智勝浦に疎開(終戦の1945年は11~12歳?)
- 知り合いのつてで大阪松竹少女歌劇団に顔を出すようになる。戦後に劇団が駐留軍で慰問公演を行う時には通訳を務めた。
- 1947年(当時21歳?)2人の弟とともに再びアメリカ・ロサンゼルスに渡る
- ロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業
- 1957年に日本に再帰国(当時29~30歳?)
- 1950年代後半四谷三丁目にカウンターバー「スポット」を開業
- 1962年(当時34~35歳?)、弟のジャニー喜多川が「ジャニーズ事務所」立ち上げると、バーを閉店して事務所の経理を担うようになり、その後経営全般を取り仕切る。
- 1966年(当時38~39歳?)藤島泰輔氏との間に藤島ジュリー景子を出産。このときは内縁関係だった。
- 1972年藤島泰輔氏と正式に結婚
戦争を経験した人はみんな苦労されているとは思いますが、これを読むだけで激動の半生だったのが分かります。
特に幼いころに母親を亡くしているのは彼女のその後の人生に大きく影響していそうですね。
幼い弟を連れての慣れない日本での生活、戦争中の疎開、その後の渡米。幼いながらに強さがなければ生き抜いてこれなかったことが伺えます。特に末の弟のジャニー喜多川にとっては母親代わりだったのでしょう。
また大阪松竹少女歌劇団で通訳を務めるなど、当時からエンタメ業界に縁があったということは、本人も興味があったということかもしれませんね。
メリー喜多川のアメリカ時代
メリー喜多川はアメリカで生まれています。当時アメリカの日本人社会では漢字の日本名のほかに、「メリー」や「ジョン」と言った、西欧式な呼び名をミドルネームにするのが通例だったそうです。ただ日本人コミュニティの中では日本語で話し、日本名で呼び合っていたということです。
幼少期をアメリカで過ごした後に帰国。戦後に弟たちと再度渡米したのは、「戦後の混乱の中にある日本では子どもたちに満足な教育を受けされられない」という父親の考えによるようです。
学校はロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業しています。ジャニー喜多川も同じ学校を卒業しています。ロサンゼルス・シティー・カレッジは2年制の公立大学で、卒業生には俳優のクリント・イーストウッドやモーガン・フーリマンなどエンターテインメント業界の人も多いのが特徴です。
メリー喜多川は学校に通いながら、ハリウッドの裕福な家庭の住み込みメイドの仕事(ハウスガール)をしていたということです。
明るく面倒見の良い人柄で、日本人コミュニティの中では、休日に日本語学校の先生もしていたとか。
メリー喜多川は当時のことを「ベビーシッターや売り子もやって、学校が終わるとアルバイトへ直行したり、決して楽な生活ではなかった」と過去に語っています。
ジャニー喜多川もまた、学校に通いながらハウスボーイとして住み込みで働いていたということです。
異国の地で兄弟とも離れ、1人見知らぬ家庭で働きながら暮らすというというのは、相当な苦労がしのばれますね。
まとめ:メリー喜多川の半生はなかなか壮絶だった
ジュリー藤島氏にパニック障害の告白により、「母親のメリー喜多川ってどんな人物だったのだろう?」と興味が湧き調べてみましたが、なかなか壮絶な半生を歩んだことが分かりました。ジャニーズ事務所では女帝として君臨したようですが、そんな「強さ」のもとには、強くなければ生きてこられなかった過去があったのかもしれないですね。